昭和45年02月17日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが真の道を踏んで行くのぞ。金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、是が神になるのぞ、神になりても神より上になるとは思うな。」
本当にこの六十一節はもう繰り返し繰り返し頂いて居りますが、その神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞと、限りのない尽きぬ程の、御教えを確かにこうやって頂いておる訳ですね、そうばってん今日は私尽きぬおかげをこうして頂いておりますから、確かに信心が高者になります、信心が云うなら、まぁ分る訳ですね。信心が分って参ります。
そんなもんだなあ、はあ成る程だとそうだと、今まで気が付かなかった、その云うならあぁこの、ご理解に出ておる、お言葉のもう一つ向こうの奥の心までも分らせて頂くと云う感じ。ですからその信心がいよいよ詳しくなるわけですね、それでそれを人に丁寧に話をして行くのが神様へのお礼にもなる、それが又、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞともう仰るのですから、最後に、「神になりても神より上になると思うな」と是はあんまり、すっきり致しませんですね。
神になりても神より上になると思うなと。成る程、金光様の御信心は和賀心が神に向こうて行くのが信心と云うのじゃと仰るのですから、私共の心が段々、神心が強うなって行くほど神様へ向かって段々進んで行くんだと。それが、願いであり焦点である。又はそれが喜びであると云うのが金光様の御信心。それはもう神様にはならんでん良かと云う事では、神様と言うのは、例えば。
私共が誰しもが持っておるまた誰しもが精進すれば成れれるものです。 お互いの心の中に御座る神様が神様としての値打ちを発揮して下さるおかげを頂く事なんです。云うなら、我と和賀心が拝めれる様に成ると云う事はすでに自分の心を拝んで居るのですから、ね。だんだん神様に、なって居るはずです。神になりても神より上になるとは思うなと。これはまあ、慢心を戒められたと。
一番初めに神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話しにしておくとこう仰る。そのそう云うお話を、次から次へと頂いてまあ高尚になる。してもう本当にお話が出来る様にもなる。と。そこにその、私がと云う、私がと云う我が出て来る。その我が神様のいわば気感に適わぬ事になる。信心をさせて頂いたら段々段々、我がなく成って行かなければならない。段々信心が高尚になって行く人が、おって我が出て来る。
と云うのはそのどう云う訳かと。と云うと、信心が巧者になると云う事はまあ、と申しますかね、高められると云う事。信心が高められると言う事だけになって来るから、我が出るのではないかと思います。私が、私が修行した、私が信心した、私が教えてあげた、私が導いてあげた、ね、もう導かせて頂いた、信心させて頂いた、修行をさせて頂いたと云う、そのお礼の対象にならん様な考え方をする訳ですよね。
そう云う様な私は心が神の気感適にわん。私がしておる。そこで私はその信心が高められると言う事は信心が深められる事だと分って参いりますと、有り難いですね、信心が高められると言う事は、実は信心が深められると言う事だと。信心が段々深くなる事だと。ね。深められて参ります。だから、信心が深められると言う事はそのまま信心が高められると言う事になるのです。
ところが信心が深められず、信心だけが高められるから私がこうしたから、こう云うおかげを受けた。私がお導きをしてあげたと云う事になるのじゃないでしょうか。ね。私が話をしてあげた、是はね、それはね神の気感に適なわぬ。先日もその神の気感と云う事に付いてその、北野の秋山さんが13日会の日に伊万里から参った御信者が、隣におった富永さんにお尋ねしておる。
金光様の御信心をさせてもらうと神の気感に適うとか適わんと云われるのですけれども、神の気感と云うのはどう云う事でしょうかと。さあどう云う事か分らんですけれども、神様のお心に叶わんと云う様な事じゃないでしょうかねと、説明をして、秋山さんもそう云う様なお話をさせて頂いた。確かにそうなんですけれども、気感に適わんと云ううのはそれだけではない。
もっとそれは複雑なものですね。神の気感に適わぬ、お心に適うと云う事は違う。私共日々神様の心に添い奉ろうと為に神様の心を分からせてもらい、神様の心に添い奉る生活をさせて頂こうとまあ精進しておるわけですけれどもね、その、心に添うと云う事よりか、ああ、やはり気感に叶わんと云う事はね良くありましょうが、感に障る。ね、一言の例えば言われた事が、感に障ったと云う、それなんです。
ああ惜しいなあ、あの人はあんなに、一生懸命の修行が出来られるのに、ちょっと言われる事される事が、どうもその人の感に障る事ばっかり、言うたりしたりさっしゃると云うのがありましょう。だからその、神の気感に適わんとですね、例えばです本当に良い修行が出来ておりましてもですね、その良い修行によってです、神様とこう交流して来る状態が生まれて来ましょう、所がその神の気感に叶わんと云う事はですね、もう神様との絶縁状態と云うかね、断絶するんですよ。神様の気感に適わんと言う事は。
もう、あのよく、そう云う極端な方がありますね、もう本当に一生懸命努められますから、例えばなら人間と人間との場合でも段々その情が交流すると云うか本当に、有り難い事になって行きよると、所が、ちょとした、感に障るような事をしたり言うたりしたりすると、それで すとっと 冷たくなってしまう。また元からやり直さなければならないと云った様な人がありましょうが。
だから何時までも育たないですね。本当は。惜しいです。丁度秋山さんにそのだから私共こう云う風に説明したが是で良かったんでしょうかと、言われるから、それはね、少し違うと。神の気感に適うとか適わんとかと云う事は、成程、お心に添うと云う事だろうけれども、そうではない。例えば、信心させて頂いておってお粗末ご無礼がでけてもですよね、それを一々神様がとがめなさらん様な場合もある。
例えば小さい子供が障子を破ってもほらほら、又破ったと云う位でですね、そげんそれを、感に障ると云う様な事にはならない様な、御無礼も沢山、だからそれとも違うね。だから感に障る。これはもう本当に、神様と私ともの間にその神様の気感に適わんとい云う事は心掛けなければならない。だから、皆さんの周囲にもそう云う人がありますです。もう本当にあれだけ精進をしよんなさる。
あれだけ一生懸命なさっちゃるだから本当にそこん所で有り難いなあと云うものがお互い育ち合うのだけれどもですね、なんかの機会にガタッとまた元に落ちてしまう様な事があるのです。ね、いわゆる感に障る。そして、まただから、絶縁状態になってしまう様な場合すらがあるし。それでは信心にならんからと云うてまた、その人の一生懸命の良い所なら良い所を見ながらその人と育て会うて行く、またそして、いわゆるその、なんと云うか、本当のものが育たないですね。
そう云う例えば、事は何時も気感に叶うと云う事は、皆さんのいろんな場合にですね、あの、ははあー お粗末とあの御無礼とかと云うのとはちょっと違う。その事に付いてはまた、いつか機会があったらお話したいと思うのですが。私共が信心が段々分って来る、信心がいよいよ高められて来る、信心が詳しゆうなって来る。金光様の御信心とはこう云うおかげが受けられるのだと云う人にも話が出来る様になって来る。
信心が高められる。信心が高められるとです、ね、信心が高められると、我が出て来ると。ね、それが神の気感に叶わんと。いわゆる、私が修行をした私がお導きをした。私が、高められてくる、私が、話をしてやったと云う事になるんです。それが高められただけではですね、高められると云う事はそう云う事なんです。私は神より上になるなと思うなと云う所を頂いてから、実はこんな事を頂いて私もよく分からんのです。
「神に等し」と頂いた。神が上、上と言う字ね。これはま少し頂かにゃ分らんのですけれども、こう云うお言葉を頂いた。「上に等し」と云う事。その上と云う字はうえと言う字。これはどう云う事だろうかとこう私もまだ分らんで居るんですけれども、これは探り探りこうお話させて頂いて居る訳なんですけれども、信心が高められる。信心が詳しゅうなる、信心が巧者になる、人に話の一つでも出来る様になると、たしかにそう云う風に成ってまいりますとね。
所謂我が出ると云う事を申しましたがその我が、神の気感に叶わんと云う事ね。神より上になると云う事はそう云う事でなかろうかと云う事。神様から導かせて頂いた、神様からお話させて頂いておるのにも関わらず、私神様は置いてしまった私が言うた、私がしてあげた私がまいった、私が修行をしたと云う事になるのです。ですから是はまさしく、神より上になった訳ですね、神様をないがしろにしておる訳ですから。
それが神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげをその、尽きぬお話を頂くもんですから巧者になる訳なんです。其処でね、私は思わせてもらうのに、ね、信心が高められると云う事ではなくて信心が深められなければいけない。そして信心が深められると云う事はそのまま、信心が本当の意味合いにおいて高められる事なんだと。信心が深められると云う事はどう云う事かと云うとね、ね。、
私自身がね、掘り下げられると云う事なんです。私自身が深められると云う事なんです。信心の御教えによって自分と云うものが段々分って来る。自分の正体が分って来る。ね、いわゆる、屑の子我、私のような屑の子がまたとあろうかと、私の様に神様に御厄介をかけるものが他にあろうかと、ね、いわゆる、私自身が本当に、分かって来る。自分の正体がいよいよ分って来る。ね。
其処からお礼の印、お詫びの印と云うものがですいよいよ、人にも伝えさせて頂けれる信心。此処ん所になってまいりますと、いわゆる実意丁寧神信心と云われる、実意丁寧が自ずと出て来るのでないでしょうか。してあげるさせて頂く事になり、導くのではない、導かせて頂く事になり、私の様なものでも御用に使こうて頂いて有り難いと云う事になるのではないでしょうか。
神より上になるなと云う事をですね、一番最後の何でも同じ事一番最後の所がやっぱり、大事だですけれども、段々ここん所の御理解頂いてまいりましてね、ここん所を、まあ今日の様な風には頂いていない。神になりても神より上になると思うな。神に成りてもと云う事は上になってもと云う事。信心が段々高められてもと云う事。ね、いわゆる、信心が段々詳しくなってもと云う事。
けれども、段々詳しくなると云うか、上のほうになって参りますとです、例えば私は総代で御座います、ね、と云うといわば総代以下の信者さんかたは自分たちより程度の低いとの様な思い方をする。金光様の御信心で云うならもう先生といわれ、総代と言われ、幹部と言われれば成る程です、もう一番下から行かないかんとです。もうそげんとがいっちょ便所の掃除からせないかんとです。
下駄を揃えるのはそう云う人達なんです。そうでしょうが信心が本当に分からせて頂くのだから、それが本当でしょうが。それがその、ややもすると信心が上になる、上に等し、信心が上になって行くとです、私がと云うまあ云うならふんぞり返った姿勢を取る。それが神の気感に適わん、だから信心は高められなければならないけれども、信心が高められると云う事は、信心が深められると云う事だと一つ分らにゃいかんね。
信心がいよいよ深くなる、自分と云うものがいよいよ掘り下げられる。その自分と云うものが掘り下げられれば掘り下げられる程、自分の正体と云うものが分かる。ね、其処から、私のようなものに、かくまでおかげを頂いてといった様なおかげになって来るのです。ね。その相済まなさとか、またはあー有り難さがです、ね、人に丁寧に伝えて行くと云う事になって来る。
それがいよいよ、また神になって行く働きになって来る。もう、神様とのね、絶縁状態にならないと言う事はね、もう何時も自分が実意丁寧神信心が出来ておる時です。本当に自分の様なものがと。いわゆる、屑の子我である自覚が出来て来る様なあり方になる時、神様との間はいよいよ密なる交流が出来て行く時です、所が神の気感に叶わん例えば言うたり、したりの云わば態度の中からです。
もう、神様との間にスターと冷たいものに落ちてしまう。また始めからやり直すといったような繰り返しにならんですいよいよ信心を深めていかなければならんと云う事が分ります。昨日ある方が、ある教会の御大祭にお参りしてから帰ってまいりましてからです、此処でお届けをされるのですよ。私も随分あっちこっちの御大祭を頂いてまいりましたけれども、今日行った所の御大祭、所が一番寂しかったち。
御大祭と云うのに若い者は全然おらんなら、お年寄りばっかりで、ほんなばらっとした事じゃった。それが教会は最近御新築になって、立派な教会なんです。のにも関わらず、そのー本当にまばばらな、しかも、それがお年寄りの人たちばっかりの様な、御大祭。お参りさせて頂いた教会では、今日の教会が一番淋しかったと云うて此処でお届けをされるのですよ。どうしてそう云う事になるのだろうか。
丁度私が、四時の御祈念を仕えさせて頂こうとする前でしたから、私は三時半頃此処に座っておりました。その間でした。それで、私は自分がおかげを頂いておる事を思うて見た。ね、椛目時代から合楽にまいりました。この様な御造営が出来た。この様な広々としたお広前が、椛目から比較すればですよ、ね、この様に広なった。広なったから、やはりご信者が少しばかりかと云うと、此処へ来て、此処で一番初めに、例えば開教式なら開教式があった時には、やっぱり此処いっぱいじゃったと。と云う事。
可笑しいですね、そこの教会が立派に出来たのですから、本当はそこいっぱいなご信者がもうおらなければいけないのですけれども、結局そこの先生が頑張られて立てられたお広前でしょうね、此処の場合は私が頑張って立てたお広前なんかじゃなくて、神様が頑張って下さったお広前なんだから、広なったら、広なっただけ、やっぱり信者があるですもんね。まあ一番初めの開教式時から、ほんな少しばかりから、段々多なったじゃなくて、もう一番初めから此処いっぱいじゃったでしょう。
この障子取り払ろうて此処いっぱいじゃった成る程、それには好奇心にかられて信心のない人も沢山その変わり集まっておった。また業者の方達も沢山来ておった。とにかくそれでもやはりいっぱいであったと云う事。ね。二度目三度目には段々そう云う好奇心にかられて例えば沢山お参りがあった。その当時は。けれどもそう云う方達は段々こう減っていって、本当に信心をさせて頂くと云うものだけで、一杯になってきた。最近では月次祭でこげん一杯になって来る様に、なって来よるでしょうが。
ですからこの辺の所がね、今のあんたが行った教会とは違う。まあ此処のこんな大きな教会ではありません。小さな教会ですけれどもやっぱ御新築になった事は間違いがない。所その、小さいお広前でもその、かえって信者さんが減っておると云うかね、ばらっと信者さんが減ってお年寄りばっかりのお参り御参拝であったとこう云うのを聞いてですね、どう云う所から、そんなに違うて来たか、神様が先頭なんだから。ね。
いわゆる教祖様の御理解から云うと、神より上になっておられる。私が此のお広前を建立する時には、それは頑張ったと、先生が思うておるのではなかろうかと、そうでしょうが、本当に受けものが出来たら、受けものにいっぱいになる様に、本当の受けものではない。ただがんばって出来たと云う教会。此処でも皆さん随分頑張られたですもんね。けれども私は頑張っとらん。ね。
そこ辺にですね、違いがあると私は思うた。それが丁度、四時の御祈念に入る前ですから、私はね、その教会の事をです、折角あの様にしてお広前が出来たのですから、立派な御建築が出来たのだからです、ね、折角、人の助かる場が出来たのだから、金光大神取次の場が出来たのだから、どうぞ今まで以上にそこに取り次ぎ助けられる人達が出来ます。事を、四時の御祈念にお願いさせてもらいよった。
私は。それから、何時も四時の御祈念は三十分ですから、四時三十分にきちっとこう下がって来た。そしたら、今修行していますあの、久富広道君がここへ出て来てから、それこそ感激の面持ちいっぱいで此処へ出てまいりましてね、「先生私は今日是がお知らせと云うものでしょうか、ただ今の御祈念中にこう云うう事を頂きましたと。」それはあんた御心眼頂いとっとよ。初めて頂いた。
それがね此処で一生懸命御祈念させていただきよったげな、私と一緒に皆んなそこ出て参っとりますそしたらね。此処のご神前がね、もうそれこそ森厳なねずうとその、山に繋がるその、まあお庭があってねその向にね。未納山がこう開けていって来る所を頂く。このご神前がですね、もうこのお社ではなくてです、もうそれこそ森厳なまでの庭があって、その庭の向こうにずっとこう山がこう心眼に映った。
もうそれこそ初めて頂く御心眼ですからやっぱ身の震えるような思い感動しておる訳ですよね。びっくりしてから、そしてです、その正面にね親先生が座っておる。しかもその、横綱の云うなら、格好をしておる。その両端にだれかわからんけれでも、太刀持ちが二人立っておる所を御心眼に頂く。有り難いお知らせを頂いたねえと云うた事でした。勿論私が横綱になっておる訳じゃないけれども、やはりその、私自身目指しておる所は横綱です。何時もここで私は申します。
だれ皆さんたちはそうでなければならんという事です。目指すところは横綱なんです。だから私が晴れの土俵入りをさせてもらう時には、広道ちゃんあんたが太刀持ちのそのさせていただくくらいなおかげを頂かなければならん力を頂かなければいかんとよというて、そういう願いをもてという事なんです。親先生が土俵入りをされる時にはせめて立ち持ちの御用を私にさせてください。
そういう力を与えてくださいと言う様なものでなからなければならんと。先日から十三日会の時に広道君が発表しておる、たった一言ですけれども、もうここで一生懸命修行しよるけんお話することはいっぱいというのだそうです。けどただ煎じ詰めていうならばです、ただ神様を信じたいと、本当に神様が分かりたい。そのための修行ならそれこそ、現在のところですよ、火の行水の行はいといませんという位のな、まあ熱心な修行をやっておるわけなんです。
夜中に若い人達ばかりで、お滝の水をかかってくる、帰ってくる時には真っ青になって帰ってきますよ。ん。2時間あまりの時間をね滝に打たれて帰ってくるんですから、それこそ、一日中頭が痛いぐらいある。私共そういう体験がある。それを何日間と例えば、日を切って修行をさせて頂いております、それも何かというとですね、こういうおかげを頂かなんならんというのではなくて、神様が信じたいちゅうの。
神様が分かりたい。そこで私が今日は先生がそのことについてヒントを与えるというてまあ、話したことです。広道ちゃんあんたが、一生懸命神様が信じたい神様が分かりたいというて、修行をしよる事はありがたい。だから今日はね本当に神様、神様を信じたいならね、あなた自身が神様を信じられるあなたになる事以外にないんだと。神様が信じたいなら神様に信じられる私になることだと。ね。
ですから例えば一生懸命の信心をさせて頂いておると、神様の御信用がだんだん出くる、神様の信用がだんだん出来てくる、はあ神様が信用してくださったのにも関わらずです、んなら絶縁状態になって我がでる為にですね、ストーとまた元にもどさんならんというのだったら、神様をまた始めから、信用しなさんならんと言った様な事になるでしょうが。上になると思うなという事はそれなんです。
神より上になると思うなと。自分は上になっておらんつもりでも、もう実際は上になっておるわけなんです。ね、神様をないがしろにしておる。私がしておる。神様からさせて頂いておるにも関わらず、私がそういう結果になるのだと。ね、だから、いよいよ神様は本当にお互いがしょうでしょう。ね、神様が信じたい、いわゆる神は、信じるものを信じると仰るくらいですから、神さまのいわゆる確信ともうしますかね。
神さまの信念と申しましょうか、そういう不動のもので神様を信じれれるということはね、私自身が、神様に信じられる、私にならなければならないと言う事なのです。ここんところをね一つ本当にね、神になりても神より上になるとは思うなというところを皆さん頂いておるわけなんですよ。ですから、なら神になるという事は神に等しいと私は頂いたのですから、神は上と言う字ですね。
いわゆる私共がね、神より上になるという事はね、神信心が上になっていく、段々いうなら、合楽の教会でいうならば、合楽の実力者になる。総代なら総代にも御取立ていただくようになる。ね、ところが本当の意味で合楽の実力者に段々なっていきよるけれどもいわゆる自分の、本当に力のように過信するわけです。ね。自分の力のように思うのです。私がこれだけのことをしておると思うようになって来るのです。
それが神の 期間 に叶わんという。ね。だからそういう意味でおいての高められるのではない。上になるのでは神になるのだと仰る。その神になるのはどういうことかというといよいよ自分を深められるという事になる。自分というものを深められる。いよいよ自分というものがいよいよ掘り下げられる、自分の実態自分の正体が分ることなんだ。ところが私のようなものがと言う事になるのだと。
昨日一昨日、久留米の佐田さんが御心眼を頂いておられる。ある方がの御心眼をはっきり頂いたら、次に神様から、「足利尊氏」と頂かれた。ね。まぁここの教会きっての実力者なんです。だから昨日その方に私申しました。あんたの事ば佐田さんこう頂いたよ、どういうこととも、どういうことでしょうか、さあ自分でこうしてみなさいただ、ね、現在あなたが合楽実力者であるという事は間違いない。
当時の足利尊氏というのはやはり実力者。ね。いわゆる「楠木正成」相手にして闘った、そのそれなんです。ね。大変ないわゆる実力者なんです。ところがやはり反逆児なんです。なんというても。ね。例えばなら実力が出来れば出来る程、今日の御理解ではないですけれどもね、私がこれだけの事をしておるというような、事でです、言うことになったら、神様とのいわば絶縁状態、ね。
神より上になるような事になってくるとですそのこと自体がおかげを落とす事になる、その事がおかげを落とした事がです、もう云うなら合楽の実力者でありながらです、合楽の反逆児にならなければならないのだと。このことはまあだ大変意味のあるような事だから、自分でよく頂きなさいと申した事です。ね。これはですね、例えばこの、ここの信者でもそうです、まぁだここの信者なら信者じゃないぐらいな人がです、どうにもその、ずぼげな事があってもですよ、問題にならんですもんね対して。
ところが、あげな熱心な信心して、あげな御用を頂きよった人があげなおかげを落とさっしやったという事になったら、もう、もうそれこそ、合楽の信用が地に落ちるですよ。ね。いうならそれに反逆するわけ。神様の働きに。ね、だから、実力者になれ、実力者であればあるほどです、ちからというものがです御用なら御用がです、本当の御用であり、させて頂いておるのだという所にいわば、神に近づいて行きよる信心ということが云える訳です。それが神になるのだということになってくる。
その神にならずに上になる上、上になっていく所に私が私の実力でこうと言う事になってくるのです、ね、それでは例えば神のきかんにかなわん。きかんに叶わんと言う事が、又始めからやり直していくと言う様な結果にすらならん。どうでも一つおかげを頂きましてね、どうでも信心が高度な信心にならなければならない所ではありません。ならにゃいけません。けれども信心が高度な信心を身につけるという事は、それは自分自身が愈々分かるという事。自分がいよいよ深められるという事。
山の信心ではなくて海の信心ということ。ね。その深められるという事がそのまま、それは高められた高度な信心ということ。本当に、高度のな信心にならなければ、高度な信心ということは神になるぞと仰る、神になるそれを目指していく信心。それが上になるという信心ではない。上になる信心となると、結果がそういう結果、面白くない結果になって来る。有難くない結果になってくる。どうでも自分自身を、掘りさげ掘り下げさせて頂いてから。
いよいよ自分の信心を深めさせて頂くというおかげ、今日はね、いうなら最後の、神になりても神より上になると思うな、ここんところをあんまり重視しなかったですねあんまり。ここで随分御理解を頂いてまいりましたけれども、けれども今日頂いてまいりますと、ここは大変な、ところだという事がわかりますですよね、どうぞ神より上になると思うてはなりません。その神さまのおかげでと言うことにならなければいけんのですよ。
どうぞ。